たかちゃんプロフィール その1
たかちゃん

こんにちは!
貯蓄加速ブロガーのたかちゃん@chotakachanです!

僕の人生を振り返ってみますと・・・

といっても高校卒業くらいからスタートします。

幼少期は野球がしたかったけど「お金が無いから諦めなさい!」と言われて育ったくらいで、あまり特筆すべき事項はありません。

お金について真剣に考え始めたのってこの時期からだったと思います。

大学で一人暮らしするにあたって、どういうお金の使い方が大切なのか、お金が無い人は全てを奪われるのではないかという恐怖について理解できました。

バイトでも必死に働けば何とかなるという実感を得たのも大きかったです。

大学の4年間は僕にとって価値観の土台が形成された時期だったと思っています。

教育費安い方の典型例

僕は地元の進学校(高校)を出て国立大学に進学します。

元々、なぜ進学校に行ったかといういうと、進学校って荒れてないじゃないですか。

だからなんですよね。

僕がいた中学校って特別荒れてたわけじゃないのですが、3階から机が落ちてくる程度の中学校にいました。

やっぱり静かに暮らしたいじゃないですか。

そんな感じです。

中学生以前の僕は可もなく不可もなくな成績で、運動も悪くない、体格も良い方で、いじめることもなくいじめられることもなく、特にドラマらしいドラマのない人生でした。

高校も進学校とはいえ、県下有数とかではなくて国公立大学ならどこでもいいから行きなさいって感じの2流進学校です。

高校での成績は下から数えた方が早かったのですが、周りがみんな進学するので、僕も進学希望でいました。

2年生の頃に親から

「国立行けなかったら就職してね」と言われ

こりゃちゃんとしないとなと思い、本格的に受験勉強を開始します。

当時はみんな塾に行っていましたが、

僕は市販の問題集でなんとかしました

多分かけた時間で言うと人生で一番勉強していた時期のはずです。

進学校なので当たり前っちゃ当たり前なんですけどね。幸い友達にも恵まれ、勉強を苦痛に感じることもあまりなく過ごすことができました。

勉強が義務感に包まれると続きませんよね。僕は幸せな方だったと思います。

結果は地方の国立大学に合格です。

そうして僕は小学校~大学まで全て国公立で済ませるという、

ファイナンシャルプランナーの「これからかかる教育費の目安」に出てくる安い方の典型例のような進学経路をたどります。

田舎の大学なので生活費はあまりかからないといいつつも、家賃だけはそれなりに高くてびっくりしました。

僕は少し大学からは距離がありましたが、家賃16000円のアパートを見つけました。

築年数65年の木造アパートです。

風呂トイレ共用で洗濯機まで共用でした。

古い木造アパートなので壁は薄いし、穴空いてました。

それでも雨風はしのげるのでそこに決定です。

冬は室内なのに氷点下になりますが、着込めばなんてことありません。

正直、大学に行く動機は無くて、やりたいことも将来の夢なんてものもありません。

それでも、奨学金借りて進学するのですから安くできるところは安くしたかったのです。

大学の寮という選択肢もあったのですが、寮は上下関係が厳しいというか激しいのと、毎晩酒ばっかり飲んでいる話を聞いたので却下。

僕は四六時中誰かと一緒にいるのが耐えられないと思ったのです。

補欠に入れない

僕は高校からの惰性で陸上競技部に入りました。

サークルじゃなくて部活です。

といっても地方国立大学の部活だと都心の私立大学と違って、寮に入るとかすべてを管理されるとか、そういうもんじゃないです。

高校のときと似たような感じで、全てを捧げて競技に取り組むというわけではありませんでした。

みんなバイトもするし講義も出てるし、ゴリゴリの体育会系ではありませんでした。

全体で集まって練習するのは週3回程度です。

ただ、そうなると求められるのは

自分で計画を組み立てて、全体練習以外にどのように過ごすかです。

ここで大きく差が開きます。

週3回の練習は基礎練習ではありません。

せっかく全員で集まるので質の高い練習をします。

なのでそれ以外の週4日でどのように過ごすかが問われるのです。

僕はこの週4日の過ごし方がわかりませんでした

正直、入ったときから持ちタイムは下位の方で、自分でどうやったら改善できるのかもわからなかったのです。

高校の時は言われた練習を言われたとおりにやっていただけなので、練習と向き合う感覚が全然つかめなかったのです。

当然数ヶ月すると、周囲と差が開いてきました。

10か月もすると同学年とはちょっとやそっとじゃ埋められないくらい壁ができてしまいました。

僕は部内でドベになったのです。

僕はなぜ結果が出ないのかわからないまま、

どうせ才能がないとか

練習環境が違うとか

自分以外のところに責任を押し付けるようになってきたのです。

いわゆる腐った状態です。

練習するモチベーションも下がり、

とうとう僕はドベのまま2年が経ちました。

大切なことは全て後輩が教えてくれた

結果の出せない陸上部員でしたがそんな僕にも後輩は間違いなくやってきます。

2つ下の後輩は持ちタイムも僕より遅かったので、何だか気持ちも穏やかです。

自分よりも下の人がいるとなんて安心するのでしょう。

ですが、そんなことも数ヶ月で終わりです。

僕はその後輩に勝つことはできなくなりました。

また僕はドベに戻りました。

正直なところ、体格は僕の方がいいし、ボディバランスも僕の方がいいという自信がありました。

でも、あっという間に抜かれていきました。

そして、その後輩はレギュラーになったのです。

自分はなんでこんなに差がつくのだろう?

才能は知らないけれど、体格は僕の方がいい。

なのにどうしてこんな簡単に差が開くのか・・・

僕は後輩の練習を観察することにしたのです。

すぐに僕との違いがわかりました。

「彼はレギュラーとして試合に出る」

そのためにはどのような方法(練習)がいいのかを研究していたこと。

その方法(練習)にあった体の使い方や食事の仕方を学んでいたこと。

そして、みんながびっくりするくらい、人一倍練習していました。

この時に正しい知識を持つことと思い切った行動が大切だと理解しました。

正しい知識だけじゃだめなんです。

普通の行動だけじゃだめなんです。

言われた通りにするだけじゃもっとダメなんです。

他人がびっくりするくらいの行動があって、最短最速で結果が出せたのだと思います。

この後輩は目標があって、戦略を練って、戦術を身につけて、大量に行動したのです。

今でも思っていますが、結果が出ている人ってびっくりするくらい勉強家で正しい知識とか考え方をしていてそれでいてびっくりするくらい行動するんですよね。

僕もそのことにやっと気が付きました。

その日から、やみくもに練習するのをやめて、レギュラーになるにはどうすればいいのかを考えました。

先輩や後輩の練習や行動を観察して、自分に合った練習方法を考えていきました。

そしてそればっかりやっていました。

それから9か月くらいかかりましたが、僕はユニフォームを貰うことが出来ました。

今までの腐った考え方を捨てて正しい知識と思い切った行動で結果が出ることを身をもって味わうことができたのです。

父親入院!僕の180日防衛戦争

部活の結果が出始めたある日、母親から電話が来ました。

父親が入院したのです。

理由はうつ病による自殺未遂でした。

母親の機転で父親はすぐに精神病院に入院。

結果として4ヶ月入院して、2ヶ月は自宅でお休みです。

母もよくすぐに対処できましたよね。

僕はすぐに実家に帰りました。

うつ病は回復にその原因となる行為があった時期の3倍以上の時間が必要と言われているようです。

父親はそのまま会社を退職しました。

引継ぎが必要な仕事ではないので即日退職になったそうです。

会社からは特に対応は無しです。

ここから1年くらい労災認定の関係で労基署と会社とやりとりすることになるのですが、これはまたの機会のお話です。

最後に父親に会ったのは半年前でした。

父親の顔を見ると、半年前に会ったときとは別人のような顔でした。

顔はしわだらけで、目がとろんとした感じで、うつ病の顔ってこういう感じなんだというのが今でも脳裏に焼き付いています。

命に別状はありませんでしたが、完全に回復するまで数年かかりました。

ここで別の問題が出てきます。

父親が働けなくなったので、毎月の給料が無くなります。

父親の手取りは25万円くらいでした。

そうです。

ローンが払えないのです。

母親も働いていましたが、圧倒的に足りません。

弟はその年に大学受験です。

弟の地頭なら国立行けるのですが、それでも入学金払わなくてはなりません。

住宅ローン払えなくなると家が無くなります

しかも、住宅ローンだけじゃないのです。

自動車ローンもありました。

毎月18万円くらい足りないのです。

そして僕の学費の支払いも控えています。

手取りで23万円必要になりました。

期間限定ですが、学生だった僕が実家に仕送りすることになりました。

ここから父親がパートを始めるまでの約180日。

人生で1番と言っていいほどの危機感で活動が始まりました。

部活を辞めて、アルバイトを増やしました。

既に働いていた早朝のパン屋に加えて、夜勤でカラオケ店、昼間に倉庫で荷積みのバイトをしていました。

パン屋と倉庫は安定的にシフトに入れたのですが、カラオケは週末しかシフトに入れません。

これでは稼ぎが足りないので、平日の夜勤を探しました。

探すとあるもんですね。

レンタカーのバイトがありました。

工業地帯だったので、週末よりも平日の方が需要があるらしいです。

そうして僕は結果として4つのバイトを掛け持ちになりました。

フリーターでもここまでやらないらしいです。

ちなみに当時の一番稼げた時の月収は正社員になった後よりも高かったです。

正直、今の月給よりも収入は多かったです。

大学が夏休みの時期になると、シフトが上手く入れるようになって、文字通り24時間体制で働けるようになりました。

毎日何かしらのバイトをしていました。

たしか手取りで毎月25万円くらい稼いでいたと思います。

年末年始がピークで手取り30万円超えるくらいでした。

夜勤とはいえ田舎の時給なんてたかが知れていますからね。

今でこそ時給1000円超えるバイトが多いですが、当時は夜勤でも時給1000円いけば高い方でした。

それでも人間やればできるもんです。

今振り返ると、ぶっちゃけここまでやらなくても大丈夫だったのですが、当時の僕は働いていないと不安で仕方がなかったのです。

もちろん大学も行かねばなりません。

何とか出席して試験も何とか合格です。

もちろん成績は下位ですが・・・

あの答案も最小限の記述したしていないはずなので、合格できたのか不思議でしたが、良かったです。

ここで成績上位だったらかっこよかったんですけれどねぇ・・・

半年して父親がパートで働き始めたころから、僕はバイトの数を減らしていきました。

もう二度とやりたくありませんが

今何か苦しいことがあるとその時を思い出します

正直ブラック企業勤務のときよりも懐かしく思います。

自分一人じゃなくて家族の今後がかかっていると、本気でそう思ってましたし、実際そうでしたから。

地元に帰ろう

そうこうしている間に就職活動のシーズンが始まります。

父親も完全回復ではありませんが、パートで働き始めています。

今回の件で我が家は疲れてしまいました。

母と弟がこの時に大ケンカしたり、なんでこんなことになったのかと祖母と母が大ケンカしたり・・・

正直、実家に帰りたくない気持ちもあったのですが、それでもやっぱり心配だったので、僕は地元で仕事を探すことにしました。

その当時は東日本大震災直後の不況真っただ中で、地方のある程度収入が見込める仕事って銀行員くらいしかないような状況だったのですが、地元のメイン銀行は採用数にも限界があります。

そもそも募集自体がほとんどなくて、選択肢の少なさに非常に困りました。

そもそも中小企業ばっかりで大手なんてないです。

ですが中小企業で新卒募集をしているところなんてほとんどありません

仕方がないので中小企業も含めて、新卒OKの仕事を探します。

いくつかの会社にエントリーしてみると、結構簡単に内定出るんですよ。

どこも人手が足りないのか、書類はすぐに突破して面接に進みます。

面接もすんなり突破して、僕は地元のオフィス系の総務職として採用されました。従業員もパートアルバイト含めて10人程度のザ・零細企業です。

無事に地元の会社に就職です。

親もほっとしていました。

僕も実家に戻って家族の様子を見ながら生活できるのでほっとしました。

ここからまた僕の試練が始まります。

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